ときどきDJ

ときどきDJをやっているIT系の人の殴り書きです。

大学時代の恩師の最終講義にオンライン参加した

大学では哲学を専攻していて、古典ギリシアからスタートして結果ドイツ観念論系に進み、最終的にはヴァルター・ベンヤミンで卒論を書いた。そんなの卒論を監査してくれたのがその恩師である。恩師はテキストをどこまで正確に読みながら考察できするかを非常に重視していて、毎度議論をするために事前にドイツ語原典を学生がそれぞれ翻訳してきて添削をしながら議論するというのが通例だった。まあどこも同じか。あとは哲学史も重要視していた。といっても、歴史や思想を暗記しろというわけではなく、「既に過去の賢人たちが我々と同じような疑問を持って思索し批判を繰り返してきたのであれば、同じ思索をむやみに繰り返すのは時間の無駄である。哲学史を学ぶ意義は、現代で我々がまっすぐに解決されていない問題に行くつくために有用だからだ。なお、新たな批判*1についてはいつでも生まれうる」とおっしゃっていた。 単純な語学力と、併せて文脈や過去からの系譜も当然重要になってくるので必要な予習量も多く、先生自身クール(に見える)人だったので緊張感の高い授業ではあったが非常に楽しくもあった。僕は頭が悪いのでよくボコボコに怒られていた*2。出来が悪い分、人よりもっとやらねばと朝から晩まで大学で勉強していたらそれをみた先生は「学問には一種の才能がいるのはたしかだが、それ以上に努力がものをいうから頑張るといい」と言ってくれた。卒論の中間講評では「君はまだ『自分の考える結論』に向けてテキストを読む傾向が抜けてない」とバチクソに怒られたが。しかし、その他の教授に「畑違いのくせにその卒論テーマはなんなんだ」的な講評をされた際、「畑が違おうがなんだろうがここに研究する意義があって、哲学を学ぶ人間として畑が違うから考えるのやめますなんて言えるか」と食らいかかったら中間講評後に「あの切り返しはよかった」と褒めてもらったっけな。今となってはいい思い出である。 先生のゼミ合宿では、夕食後ほろよいの先生と酒を飲みながら「家族」の話になり、自分と父親は仲が悪く実は10年くらい口を聞いていない(当時)という話をした*3ら、「男親子なんてそんなもんですよ、僕も父とは仲が悪かった、恥ずべきことではない」と穏やかだがまっすぐに言ってくれた。別に恥じてるわけでもなかったが、不思議と楽になったのを覚えている。 今でも論理的にものごとを考えたりするのが得意なわけではないし、深い考察力があるわけでもないが、そんな僕でも頭を使う仕事という分野で飯が食えているのは哲学を学んできたおかげだと思ったりする。

先生、ご挨拶ができなくて残念でしたが、最終講義、感銘を受けました。 またいつかどこかで、先生のもとで勉強できたらいいなと思った時間でした。 くれぐれもお元気で。 それでは失礼します。

*1:わざわざ書くことでも本来ないと思うんだけど、当然ながらここでの「批判」は「批判殺到」みたいな意味でもなければ「誹謗中傷」の類でもなくいわゆる「哲学的批判」の意味である。しかし、「哲学的批判」って言葉を使うと「批判」という言葉自体が「だれかの行いあるいは振る舞い、言動などをけしからんと叱責すること」が本来の意味みたい勘違いされてしまいそうで嫌だ。哲学的批判=本来の批判だろうよ。

*2:当たり前だが暴力でもアカハラでもなくまっとうな指摘をされていたの意

*3:他人にこの話をするのは友人含めて初めてだった