ときどきDJ

ときどきDJをやっているIT系の人の殴り書きです。

フィルターは掃除してきれいに保ちたい

今日掃除機をかけていて、なんだか吸い込みが悪くなったなあと思いフィルターを掃除した*1。フィルター部分を開けた途端に溢れんばかりのホコリの固まりを目の当たりにして、「気がつかないもんでもホコリは溜まるんだな」と実感したのだが、考えて見ればシーズンごとにエアコンのフィルターを掃除するときも同じことを考えていたことに気がついた。もっとも、掃除機のフィルターはもっと高頻度で掃除をするので今回ほど驚くことは少ないのだが。

そんな経験をした際、ふいに掃除機やエアコンのフィルターが詰まるのは日常普通に起きることだと思っていても「自分の思考のフィルターにも精神的にホコリが詰まっているかもしれないのでは?」と考えてしまった。

思考のフィルター

正確な表現を「思考のフィルター」というよりは「思考自体がひとつのフィルタリング」だと思う。人がなにかを考えるときにはなんらかのインプットがあって、それを自分の中で反芻していく作業(これが思考)を経て、最終的なアウトプットを行うではなかろうか。もしそうであれば自分という網目を持って何を通し何を通さないかを繰り返し行なっていることにほかならないのではないか、そう考えた。

精神的ホコリ

人間は不安定な生き物であると思う。世には「論理的思考」という言葉があるが、往々にして真に論理的な思考と言うものがどれだけ行えているかと考えると甚だ疑問だし、極めて論理的な思考が必ず役に立つ結論を出すとも思い難い。まあこの辺の話は論理学に踏み込まなくてはならないので時間がかかる上に意図しているところではないので省略する。考えていたこととしては「人間が思考する上でかかるフィルタリングに『無駄だ』と言い切れる前提や『不必要な考慮』などが挟まってしまう」ことが発生するのではないか、それは精神的ホコリと言えるのではないか、ということだ。

例えばわかりやすいところでいうと「機嫌が悪い」。冷静なときにはなにも気にならないようなことでも朝から機嫌が悪いときに同じ事象が起きたときにはなぜか冷静なときと同じ判断が下せないのではないか。「好き嫌い」も同じようなものだ。好きなものには多少分が悪い話でも乗りたくなってしまうし、逆に嫌いなものには話を聞いただけで拒否してしまうようなことが、まるでそれが自然だと言わんばかりに起きたりする*2。精神的なホコリが溜まり、本来であれば判断基準としては使えないような精神的なフィルターがかかってしまっていないか。そんなことを考えていた。

掃除機もエアコンも心もきれいにしておきたい

掃除機やエアコンは健康的な生活に直結する話題なので常にフィルターはきれいな状態を保っておきたい。そして同じく、心身ともに健康であるために精神的なフィルターも、心のホコリを溜めずにきれいにしておきたい、そんなことをふと思った。いま僕の立場は会社の方向性を決める責任のある立場だ。だからこそ自分の「無駄な」フィルタリングをせず、真摯に、聡明に、判断を下せるような状況をきちんと作っておかなくてはならない。そんなことを考えた平日の夜だった*3

*1:我が家の掃除機は紙パック式ではなく水洗いできる専用フィルター式

*2:まあそれが自然なのかもしれないけど

*3:予約投稿にしてるので書いてるのは夜