ときどきDJ

ときどきDJをやっているIT系の人の殴り書きです。

銭湯の破壊力

我が家には風呂がある。が、ユニットバスというの名の代物であるがゆえに普段から湯船に浸かるという習慣からはかけ離れてしまった。ただ、どうしても風呂に浸かりたいという衝動が抑えられなくなったとき、人は銭湯という楽園を探して夜を駆けるのだ。

スーパー銭湯と銭湯

個人的には銭湯の方が好きだ。スーパー銭湯はいろいろな付加サービスがつくので非常に魅力的ではあるのだが、ある種娯楽施設としての出で立ちがどことなく一人で行きづらく感じてしまう。その点、銭湯は優しい。お年を召した方々から少年少女、背中の菩薩様とこんにちはできる気合の入った方々まで分け隔てなく門戸を開いている。そう、銭湯は優しいのだ。

大きな風呂に浸かるということ

前述の通り湯船に浸かる習慣のなくなってしまった僕にとって、それは感動的な体験でありもはや一種の霊的体験とも感じられる効果を持っている。外から身体の内部を温めて、温まりすぎたら今度は水風呂で冷やすという行為は非常に官能的な体験をもたらしてくれる。特に浸かりすぎてのぼせ気味になった際に水風呂へ足を踏み入れる瞬間がそれだ。身体の表面の温度がどんどん下がっていく一方で、自分の呼気が熱を持っていることを感じた瞬間に「低温調理されている肉はこういう状態なのだろうか」と感慨にふけることが可能になる。芯温が上がっているというのはこういうことなのか、と。

人は湯船の中では平等になる。僕の数倍の人生を歩んだご老人から僕の数倍の未来を持っているであろう少年、さらには僕と同じくらいの時間を僕の数倍の濃さで生きたであろうその筋の方も。人はみな平等なのだ。アーメン。

雑さが癖になる

1時間ぐらい温まったり冷えたりを繰り返しているとだんだん世の中がどうでもよくなってくる。あーそうだいまここで最高に汗をかいているこの個体、僕こそが神だという気になってくる。嘘だ、そこまではならない。が、非常にいい気持ちになってくる。しかしスーパー銭湯と違って銭湯には過剰なサービスはない。休憩室みたいなものはないし、風呂出たらあと残されているのは出口だけだ。

それでいいのだ。ただそれで。

風呂に浸かるという霊的体験を得た僕にはもう現実世界への扉が開かれているだけでよく、むしろそれ以外は蛇足と言っても過言ではない。牛乳類や缶ビールを買えるという最高の歓びを享受することも可能だが、それは財布と残されたその日の時間と相談の上決定すればよい。

振り返り

意味わからんな。

とりあえず久しぶりに湯船に浸かりたくて近所の銭湯に行ったら最高だったという話。これからは週に1度くらいの頻度で銭湯通いしたいという所存。風呂に長時間入って汗をかくといろんな悪いものが出る気がして、肉体面/精神面ともに非常に良い状態を保つことが出来るという学びがあった。現代の多忙な人間にとってユニットバスでシャワー浴びるだけの生活でも全く支障はないが、ささやかな贅沢としての銭湯というカードを持っていることを旨にこれからも頑張って行こうと思う。