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ときどきDJ

ときどきDJをやっているIT系の人の殴り書きです。

主語が大きくなると伝わりづらくなる

どうにも会議という場に駆り出されることが多い昨今、様々な主義主張を聞いていると感じることがある。主語が大きくなると言いたいことが非常に伝わりづらくなる、と。

主語が大きくなると論拠がブレる

機能Aを実装すべきか否かという議論の最中に、機能Aがどういうメリット/デメリットをもたらすかという話をしているとしよう。大体メリットを挙げる時は具体例が出てくるので理解しやすい。だがデメリットを挙げる際に「〇〇が嫌だという人もいる」と言われると、それ自体は間違えてなくてもピンとこないことが多い*1。どういうユーザはどう考えて、どういう行動に移るだろう、それはこのサービスが意図する行動ではないから止めたほうが良い、という話ならすんなり頭に入ってくるのだが、「〇〇が嫌だという人」という大きな主語で語られても想像しなくちゃいけないスケールが大きくなってそっちの方に頭の処理を持っていかれるため理解までたどり着きづらくなる。そして「〇〇が嫌だという人」って誰だ、という疑問が生まれると途端に論拠がブレてくる。どこにいる誰が〇〇を嫌だと感じるのか、その存在はどれくらいの人数いるのか、全く話に挙がらない状態では何かを判断する身としてはすがるものが無い状態で決断を迫られているのと大差なくなってしまう。

正論の中に出てくる大きな主語

ドがつくほどの正論を述べようとしてる時にも主語が大きくなりやすい。結果理解までかかる労力が大きくなって、「わかるはわかるんだけど」という不完全燃焼状態に陥りやすくなる傾向がある。正論を出してくる状態ってのは既になんとしても自分の主義主張を通したい気持ちが含まれているので、その感情が半ば暴走して主語が大きくなる気がする。自分を振り返っても、なんとしても押し通したいときに苦渋の選択で正論を吐こうと思うと主語が大きくなっていると感じるときがある。あくまで正論は正論として、それを相手に理解させたいなら主語を大きくしないように最新の注意を払う必要があるなという学びになった。感情で相手が理解してくれるケースはあるが、双方に労力もかかるしあまりスマートな解決だとも思えないので今後なくしていきたい行動の一つである。

我々はどうしていくべきか

大きな主語を使うと、言った側も言われた側も想像するところから始めなくてはいけない。すると無駄な労力がかかりやすくなるので、極力大きな主語は使わない方がいいと思う。感情論全てを否定するわけではないが、言葉で生きている存在としては極力論理で話を進めた方がスピードも出るし、納得感も得やすい。少ない労力でことを進めるために、主語は極力「集団の中の前提から外れない範疇で限定された人/もの/状況」にした方がみんな幸せになるのではなかろうかという結論だ。

*1:当然、メリットを挙げる際でも主語が大きいと頷きづらくなるのは言うまでもない